https://iclfi.org/pubs/icl-ja/4/us-japan-china
以下の記事は、2024年11月4日に東京で行われたスパルタシスト・フォーラムに基づいている。
ここ日本では、米国と日本による軍事化のニュースが日々報道されている。それは明らかに、辺野古や他の多くの場所で大規模な基地建設など、中国との軍事対決を直接準備しているというものである。先週、「キーン・ソード」と銘打った日米の大規模な軍事演習が行われ、数万の日米の兵士がその演習に従事した。最近の総選挙で、互にどんな相違点があるにせよ、すべての資本主義政党が、日本全土で、特に沖縄において、中国に対するさらなる軍備増強に同意しているのは、決して偶然ではない。
中国の増大する力は米国の世界的な優位を掘り崩し、それと共に日本の地位も掘り崩している。中国に対する帝国主義者たちの一致団結した敵対の理由は単純である。つまり、1949年の革命の結果、中国の国家権力が実現した経済的・社会的進歩であり、そしてそれは、中国の帝国主義による直接的な従属と資本主義国家の粉砕を通じて起こったという事実である。現在、日本は米帝国主義とゆるぎない同盟関係にあり、日本の支配者から見れば、中国に対する帝国主義的侵略以外の選択肢は存在しない。これはただ、日本の労働者にとってさらなる窮乏を意味する。つまり、軍事予算を賄うため、増税や年金・医療費の削減がすでに発表されている。だから、中国における労働者の闘争―米国や日本の帝国主義の主人たちによる支配に抵抗し、中国本土の工場でしばしば資本主義のボスたちに抵抗し、スターリニストの中国共産党体制による官僚の政治的抑圧に抵抗する―これらすべてが、日本の労働者階級と抑圧された人々自身の利益のための闘いと密接に結び付いている。明らかに、中国の問題は日本の労働運動にとってきわめて重要なのである。
この問題が極めて重要であるのと同様に、これについてのマルクス主義運動は国際的にも日本においても混乱している。一方には、日本共産党が存在する。彼らは日本政府と歩調を合わせ、中国がこの地域で「覇権」の推進を追い求めていると主張し、中国が帝国主義国であるかのようにほのめかしている。その追随者には、トロツキストと思われている「かけはし」とか労働者党が存在するが、彼らは中国が帝国主義であると明確に述べている。他方で、中国を 「帝国主義」とか「資本主義」とか断じるのを正しく拒否する中核派、革マル派や解放派が存在するが、彼らは中国を「スターリニスト国家」と述べている。
中核派は、特に、中国に対する日米による帝国主義侵略戦争に反対する必要性を正しく強調し、定期的にこの目的で集会を組織している。もちろん、日米帝国主義に対するこうした闘いは緊急に必要である。しかしながら、中国が「スターリニスト国家」だとする立場では、中核派は日米帝国主義に対して効果的な闘いを実行することはできない。それを説明しよう。実際、1949年の革命を今日、帝国主義の策略から防衛する必要性を否定することによって、日本共産党、中核派、そして左派全体の立場のいずれもが、米国により支配された世界秩序に屈服し順応している。米国は、ここ東アジアにおいて、日本帝国主義と緊密に同盟して、そうした戦争の動力源となっている。
根本的な点は、労働者階級の利益を前進させるには、この世界秩序に反対することから始めなければならない。そのためには、中国とその階級的性格へのマルクス主義的理解が必要である。そうした理解があって初めて、我々は、労働者階級のための重要な任務を結論づけることができる。このプレゼンテーションでは、重大な資本主義の浸透にもかかわらず、中国は依然として官僚主義的に歪曲された労働者国家だと主張する。
中国と米国との間の最終的な対決は避けられない。しかしながら、中国共産党指導部は、そうした闘争に向けて国際プロレタリアートを結集するのではなく、帝国主義との平和共存という幻想的な考えを推し進めている。それは、対立を避ける手段として、 「経済的相互依存」とか「ウィンウィンの協力」といったようなものである。唯一の革命的な答えは、1949年の中国革命の残存する獲得物を無条件に防衛することであり、同時に、その戦略と政策が中国を破滅に導いている中国共産党のスターリニスト官僚制に対する政治革命のために闘うことである。
私は今日ここにいる皆さんに、我々の記事(『スパルタシスト・日本』第3号)を学習するよう奨めたい。そしてもちろん、今日、どんな意見の相違も疑問も挙げて欲しい。この討論集会の目的は、こうした重要な問題について率直な議論と論争を行うことなのである。
中国国内や国際的に労働者に対するスターリニストの犯罪や不平等などについて、怒り怒号を上げるのはとても容易であり、もちろん正しいことである。しかし、労働者はすべて知っている。すなわち、彼らは、単に叫び声を上げる社会主義者ではなく、代わりに今どう行動すべきかの答えを出すことができる人を必要としている。どのように帝国主義者を打ち負かすか、どのように中国革命を防衛すべきか、そしてその一部として、どう腐敗したスターリニストを放逐すべきか、といったことに答えを出すことができる人を必要としているのだ。こうした任務のいずれにおいても、日本の左翼は完全に失敗している。
我々は、この『スパルタシスト・日本』第3号の記事が、革命的かつプロレタリア的な方法で、こうした問題に答える根本的な手段を提供していると確信している。これこそが、私が今日ここで主張したいことである。
中国は資本主義でも 「スターリニスト国家」でもない
中国がいわゆる「帝国主義」または「資本主義」だということを正しく拒否し、代わりに「スターリニスト国家」だと主張する左翼の主な潮流が存在する。それは中核派や革マル派に代表される。支配的な中国共産党エリートが疑う余地なくスターリニストの性格である一方で、マルクス主義者にとって、プロレタリアートの任務を決めるには、特定の国家の階級的な性格を明らかにすることが出発点である。
スターリニストとその国際的な支持者は、戦略的産業の国家管理や高い経済成長を、中国が資本主義ではないことの証拠として指摘する。ある改良主義グループは、多くの億万長者や多国籍企業を、 「中国が資本主義だ」と主張するために指摘する。中核派は、スターリニストが疑いもなく犯す労働者に対する犯罪を説明する。そして、これが問題を解決し、国家にたいし明確な階級性格を与えることなしに、国家が「スターリニスト国家」だと証明すると主張している。しかしながら、マルクス主義革命家の義務というのはある問題の個々の側面とか道徳的カテゴリーを見るのではなく、その具体的な歴史的発展において理解されなければならないということである。それはどんな問題に関してもそうである。
資本家の増殖と高度の国有化された産業は、いずれも中国を理解するうえで重要であるが、しかしそれ自身では何も証明してはいない。確かに、スターリニストは労働者階級に対し弾圧的である。孤立した要因と見なされる所有形態は、国の階級的性格を決定するのに十分ではない。しかし、中国の習近平率いるスターリニスト支配者たちが労働者の利益にとってどんなに裏切り的であるかを述べることでも、この問題を解決することはできない。
マルクス主義者にとって、問題の核心は国家そのもの、つまり武装した人間の部隊である。彼らはどの階級独裁を防衛しているのか?国家がとる政治形態に可能となる大きな変動があるにもかかわらず(例えば、資本主義国家では、民主主義、ボナパルティズム、ファシズムなど)、国家は常に特定の階級の支配を代表する。これはマルクス主義の基本中の基本である。
毛沢東はすでに、中国での 「革命的階級の連合独裁」という修正主義の概念を持っていた。つまりそれは、民族主義ブルジョアジーも含むはずであった。これは完全に幻想だということが証明された。毛沢東の人民解放軍が国民党の民族主義勢力を打ち負かしたとき、「連合独裁」など存在しなかった。ブルジョア階級は圧倒的に台湾へ逃亡し、そうしなかったものは収奪された。プロレタリア独裁である中華人民共和国は、その対極にある階級の国家と妥協することはできなかった。これがマルクス主義理論の明確な確証である。中間的な、あるいは農民国家も存在しなかった。帝国主義者たちに支配された資本主義国家になるか、あるいは労働者国家になるかのどちらかであった。
今日、中国が資本主義だと主張するさまざまな社会主義者たちは、何らかの形で、1949年以降に労働者国家の中国から1990年代の資本主義国家の中国へ、徐々に途切れなく、移行したと主張するにちがいない。彼らによれば、この移行は、中華人民共和国の国家構造が粉砕され、新しいものに置き換えられることなく起こった。旧ソ連や東ヨーロッパで資本主義反革命が引き起こした腐敗や悲惨な状態とは異なり、1990年代の中国では、歴史上最も驚くべき生産諸力の発展と、他に類を見ない貧困の減少が見られた。これは、中国が、帝国主義の支配する世界市場に統合されることが米帝国主義の利益に合致したものであった。確かに、新たな資本主義企業、外国のベンチャー、国有企業では、非常に不快な労働条件が存在し、労働者階級の巨大な層が民営化や市場改革によりひどい目に遭っている。しかし、全体として見れば、中国経済はとにかく、反革命が起こった国々で経験された破壊的な衝撃と同じものを体験しなかった。
中国が「資本主義」だと主張することは、同じ国家機構、同じ官僚制、同じ体制が2つの敵対する階級の独裁を防衛することができることを意味し、故にいかなる革命も反革命も必要だということを打ち消してしまう。これは、国家の存在そのものが具現化する非和解的な階級対立を否定する別の方法にすぎないのだ。日本におけるいわゆる第四インターナショナルの「かけはし」のようなグループとは反対に、中核派は中国が資本主義だという考えを正しく否定している。さらに、中核派はレーニン主義者であると主張し、次のようなレーニンから重要な点をしばしば好んで引用している。
「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現れである。国家は階級対立が客観的に和解させることができないところに、またそのときに、その限りで、発生する。逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。」
—『国家と革命』(1917年)
しかし、核心は、もちろんレーニンの良い引用をすることではなく、それを今日の現実に適用することである。そして、これこそ正に中核派が拒否していることである。
「スターリニスト国家」論の破産
支配的な政治階層による多くの鋭い政治転換にもかかわらず、つまり毛沢東自身か、鄧小平か、あるいは近年でのパンデミックをめぐる習近平によるものか、いずれにせよ、中国の国家と体制は、1949年の革命以来、本質的には依然として変わっていない。中核派は、このことを率直に認めている。彼らは、中国が始めから「スターリニスト国家」だと主張している。彼らが導き出した根本的な結論は、帝国主義から中国を防衛することはスターリニズムへの屈服であるというものである。この見解は、2024年8月に中核派の理論誌『共産主義者』に掲載された指導者の秋月丈志の主要論文「帝国主義の中国侵略戦争とは何か?スターリン主義をどうとらえるか?」で詳しく説明されている。
まず、1949年の中国革命から始めよう。秋月同志自身、この革命は「民族解放・革命戦争」であり「世界史的意義をもつ革命」だったと述べ、いかに帝国主義への打撃であったと述べている。中核派は、この革命が毛沢東のもとに、「スターリン主義的な歪曲を受け」たと正しく述べている。秋月は、しかしながら、新体制の階級的特徴づけを与えないよう用心している。そうすることによって革命が資本主義国家を粉砕したという事実が消された。この粉砕こそ中国資本家の収奪の基盤を築いたのだ。このことは、毛沢東の政策にもかかわらず、打ち負かされたばかりの中国ブルジョアジーとのある種の「共通の独裁」を築くといった彼の主観的な意図にもかかわらず、起こったのである。中間の道などなかった。革命は資本主義国家を粉砕し、労働者国家を樹立したのである。
秋月は、毛沢東の政治的裏切りや「一国社会主義」の綱領について、そして毛沢東や今日までの彼の政治的後継者たちが、いかにプロレタリア国際主義の綱領を追求していないかについて、多くの正しい批判をしている。しかし、問題は残る。労働者階級の利益を前進させるためにマルクス主義者の取るべき出発点は、階級的理解である。それなしには、革命を防衛することも、官僚制に対する革命的なプロレタリアの反対を確立することもできない。ここに中核派の同志たちのに提起する問題がある。つまり毛沢東から習近平に至るまで裏切りのスターリニスト政治の社会的起源は何なのか?
この単純な問題に答えるには、中核派の理論を窮地に立たせるだろう。スターリニスト官僚は、彼らの用語「スターリニスト国家」が暗示するように、新たな搾取者「階級」であり、したがってスターリニストのイデオロギーはその「階級的利益」の反映なのだろうか?もしそうだとすれば、そのことによって、この恐らく「階級」の性格の説明を、中核派に必要とさせるだろう。つまり生産手段に対する特定の所有関係も独立した所有関係も持っていないこの「階級」の性格を、中核派は説明しなければならないだろう。中国では、このことがはっきりにと見て取れる。つまり官僚は、1949年の革命によって設立された国有企業(プロレタリアの所有)を管理する(そして略奪する)立場から特権を得ているか、あるいは民間企業を直接所有するか経営に協力することで利益を得ている(資本家の所有)かのいずれかである。もちろん、大抵は両方である。カーストとして、彼らは、帝国主義との「平和共存」を追い求めるなか、保守的で反社会主義の利害を持った革命の獲得物の頂点に居座る社会的寄生者である。彼らは打倒されなければならないが、しかし明らかにマルクス主義の理解では、彼らは「階級」ではない。スターリニストが階級だと主張することが正当化できないことは、中核派にとってあまりにも明らかである。…だからこそ彼らは そこに近づかないのである。
一方、もしスターリニスト官僚が階級ではなく、むしろ労働者国家における寄生的な社会層であるならば、その場合には、労働者は労働者国家としての中国を防衛すべきではないという中核派の主張全体が、どんなものか明らかになる。すなわち、それは、指導者が裏切り者であるという理由で、帝国主義に対してこの労働者国家の側に立つのを拒絶するための、セクト主義の無益な言い訳である。
根本的には、中核派の主張はプチブル的な道徳主義の立場であり、政府がプロレタリアートに対して弾圧的であるかどうかということに基づいている。レーニンにとって国家は非和解的な階級の利益の証拠であったが、代わりに中核派にとっては、国家の性格は支配層の政策によって決定される。中核派はレーニンを賞賛するが、彼らの理論は、国家について、マルクス・レーニン主義の階級的理解を投げ捨てる。それは、国家の弾圧程度を測り、それからレッテルを貼るという、根本的にリベラルな見解に帰結する。
一旦この道を歩み始めると、それは「民主的」資本家たちに直接身を委ねることに導く。そして実際、中核派、革マル派や解放派のような社会主義グループは、日本共産党の大衆的な改良主義主党に同意している。つまり、その日本共産党の指導者たちは中国の自国防衛のために進めている軍備増強を非難する政府と毎度歩調を合わせている。そして中核派や革マル派のような社会主義グループは、日米の帝国主義に対する中国の軍事的措置を、「反革命的・反人民的」だと非難している。中国スターリニストの軍事政策がプロレタリア国際主義によって動機づけられているわけではないという中核派の指摘は正しい。しかし、そこから、労働者が中国の軍備増強に反対しなければならないと結論づける。それが完全に間違っている。
連合や全労連のような労働組合、あるいは現在米国でストライキ中のボーイングの労働組合を考えてみよう。ボスとの対立において、組組合を最強にさせようとしない言い訳として、組合指導部の親資本主義政策を取る「社会主義者」にたいしては、どんな戦闘的な労働者も手厳しい言葉を使うだろう。これは、もちろん、ボスによるスト破りに抗して組合自身を防衛するために(「中国の軍備増強」)、組合の最良の動員者となることを含まなければならない。
中国のスターリニスト官僚についてもそうだが、共産主義者は、資本主義搾取者との「平和共存」をも推進する親帝国主義の組合指導部を交替させるために戦う。しかし、このことは、労働組合―そして労働者国家―の最強の防衛者となることによってのみ可能である。たとえ組合が、反社会主義の資本主義支持者によって、政治的に支配されているとしてもそうである。実際、我々は、労働者にたいして、こうした指導部こそ、労働組合の防衛、労働者の獲得物、帝国主義に対する中国の防衛を掘り崩していることを、行動で示す必要がある。スターリニスト官僚の裏切り的な政策を理由に中国の防衛を拒否することは、また実際に、1949年の中国革命の唯一の防衛者であるふりをし続けることができる、中国共産党の反社会主義官僚の術中に陥るのである。
特定の重要な論点は、中国(北朝鮮)の核武装の問題である。ここ日本では、1945年8月に米帝国主義が数十万もの労働者や貧しい人々を虐殺し、核兵器に対するもっともな不安と恐怖は広い範囲に及んでいる。将来、そうした核による虐殺を防ごうと努めることは、生き残りを懸けた戦いである。マルクス主義者の任務は、こうした虐殺に責任を負うべき勢力、つまり帝国主義!―今日それは日米の帝国主義―に対する闘いに労働者やより広範の人々の恐怖感を向けることである。
そうだ。中国共産党指導者の政策は反革命的で反動的である。そして中国海軍が東中国海でフィリピンの漁師たちに嫌がらせをするときには、ただ米国に手を貸すだけである。しかしここ東アジアには、帝国主義の攻撃に対峙する労働者国家が存在するという事実がある。この階級的違いはまた、中国と著しく異なり、(日本の支配者からの支持と共に)米国による軍事と核戦略に十分反映されている。つまり米国は、例えば沖縄やフィリピンや南朝鮮に軍事基地を持っていて、中国を核兵器による滅亡で脅している。中国の目的は米国の攻撃を抑止することである。これは根本的な違いである。そのことはまた冷戦の間もそのようだった。そのときソ連による核兵器の開発は、米帝国主義の手を抑制するという大きな役割を演じた。例えば朝鮮戦争の最中のようにである。この時マッカーサーは、北朝鮮軍や朝鮮の労働者や農民に対し、こうした武器の使用を検討した。
中核派、革マル派や解放派のような日本の社会主義グループはすべて、中国や北朝鮮の手中にある核兵器への反対を掲げている。そして、彼らはこのことがなぜこうした国家を防衛してはならないかの最も強い論拠の一つと考えている。もちろん、こうしたグループは帝国主義の中国侵略戦争に反対である。しかしながら、容赦のない現実のなかで、こうした立場は、帝国主義者が中国に対し侵略戦争を行うのを、単に容易にするだけだろう。そしてまた、中核派が公言している正しい展望のために戦うことを、ずっと難しくするだろう。すなわち、どんな帝国主義の侵略も自国での労働者蜂起に転化するという闘いを掘り崩している。習近平と中国共産党の反革命的政策に反対する一方で、革命家は、核能力を含めて、中国によるあらゆる技術的・軍事的な進歩を歓迎しなければならない。中国が米国と日本を軍事的に抑止する能力能力を一つ一つ高めることは、帝国主義中心地でのプロレタリア革命を準備する時間が増えることになる。そのプロレタリア革命こそは、中国革命と国際労働者階級の全獲得物にたいする唯一の究極の防護策である。
反革命か労働者政治革命か?
もちろん、中核派が言うように、「スターリニストを打倒する」ことは必要である。問題全体は、どの階級がこれを行うかということである。労働者階級かそれとも資本家階級か?中核派による「スターリニスト国家」という修正主義理論の具体的な帰結は、ソ連と東ヨーロッパのスターリニスト体制が崩壊したときに暴露された。彼らにとって、ソ連は、1991年以前、労働者国家ではなく「スターリニスト国家」であった。だから防衛すべきものは何もなかった。彼らはソ連の破壊が反革命であることを否定した。すなわち、労働者階級の敗北ではなく、単に「悪い」政権から別の「悪い」政権への交代に過ぎない、と否定した。このようにして、中核派と、それと共に革マル派や解放派といったこの理論的伝統に属する他の全潮流は、結局帝国主義に屈服した。
ソ連の破壊という破局的な結果は、この見解の完全な破産と、それが突き付けた歴史的裏切りであることをはっきりと示している。この立場が完全に誤っていることを理解するために、こうした国々のどんな労働者とちょっと話しをすれば分かる。すなわち、それは、産業空洞化、大量失業、劇的な社会的諸結果をともなった、破局的な衝撃であった。スターリニストは打倒された。しかし、それは帝国主義者たちによってであり、労働者階級にとってとてつもなく大きな敗北であった。他の左翼とは異なり、我々国際共産主義者同盟は、スターリニストの裏切りに対する直接の政治闘争において、反革命に反対しソ連と東ヨーロッパの歪曲された労働者諸国家の最後の防衛者である誇り高い実績を持っている。
中国のスターリニスト機構に裂け目が入ったとき、―それは必ず起こるだろう―、そのとき、根本的に同様な闘争が引き起こされるだろう。資本主義反革命が起これば、破滅的状況になるだろう。恐らく、内戦、数百万人の失職、確実に束縛を解かれた資本家による経済の支配、帝国主義金融への中国の飛躍的な依存である。1949年の革命までの100年間は、中国では、「百年国耻」と呼ばれている。もっともな理由である。帝国主義者、とりわけまた日本は、台湾の併合から、中国北東部における傀儡国家「満州国」の建国、1930年代には帝国陸軍による侵略と南京などの都市での虐殺に至るまで、中国国民の生体をバラバラにした。こうした歴史全体は、大衆の意識の中に生き続けており、また反革命がもたらす脅威という意識も与えている。中国における反革命の国際的な衝撃は、日米の帝国主義を強化することによって、また悲惨なものになるだろう。
中国の若者と労働者の不満が反革命の方向に導かれる一例は、2019年の香港の民主主義抗議行動であった。中国共産党の政策は、当地の不動産資本家(中国共産党の同盟者)との緊密な同盟となっている。その一方で労働者の民主的諸権利はふみにじられた。香港の大物実業家によって負わされた多数の労働者の恐ろしい生活状況に反対するだけでなく、弾圧政策に反対する巨大でもっともな怒りが存在した。我々共産主義者の任務は、民主的自由とより良い生活を確保すべき唯一の方法が、(また大陸中国の広範な労働者階級の支持を勝ち取るべき唯一の方法として)、人民共和国を帝国主義に対して防衛することだと示すことである。そして香港と大陸の資本家を収奪するために戦うこと、中国共産党の官僚をを労働者と農民の評議会に置き替える展望をもった戦いに基づくことである。
これはまた、リベラルな民主主義的幻想や抗議活動指導部の方針から活動家たちを分裂させるために闘う必要性を意味した。こうした抗議活動指導部は、黄之鋒や他の人々のような人物に代表され、帝国主義者との同盟を推進してきた。しかしながら、中国国家を防衛しなければならないことを否定することにより、中核派の新聞『前進』は結局、公然と親帝国主義の指導者が主役となる抗議者たちの方針を歓迎したのだ。このことは、中国が「スターリニスト国家」と主張する中核派のようなグループの綱領が、いかに中国の反革命諸潮流を強化しているかを示している。
決定的なのは、世界で最も強力な中国労働者階級の行動である。中華人民共和国が反革命から救われうるかどうかは、労働者階級の先頭に立つ政治的指導部によって決定される。勝利への唯一の道は、第四インターナショナルの道である。すなわち、帝国主義に容赦なく反対し、革命の社会的獲得物を防衛し、労働者政治革命を通じてスターリニスト官僚を打倒し、社会主義革命のために国際的な労働者階級の同盟を鍛え打ち固める、そうした道である。
リベラルの平和主義と手を切れ! 反帝国主義の労働者同盟を!
日本のブルジョアジーは、数十年間、平和と繁栄を保証したのは憲法と彼らの秩序が慈悲深い性格であるという嘘を宣伝してきた。日本共産党は完全にこの嘘を受け入れ、労働運動に積極的にそれを押し付けている。しかし、これほど真実から程遠いものはない。実際には、ソ連における資本主義反革命後の米帝国主義の揺るぎない優位と覇権、そして米国の軍事力こそ、世界の相対的な安定を保証してきたのである。ある種の分業のなかで、日本帝国主義は、この米国の軍事力の庇護の下で、世界の、とりわけアジアにおいて、広大な地域を搾取することに重点を置くことができた。労働者に対して「平和な顔」をし、その一方で、日本の労働者階級に、解雇や大量の非正規雇用とともに、次々と攻撃を仕掛けた。こうした体制の下で、ブルジョアジーにとって「平和憲法」は、労働者階級を抑制する隠れみと鎖として、有益な機能を果たした。
現在、帝国主義者の絶対的な優位が多方面にわたり盾突かれているなか、日本は中国との軍事的対決に備える一部として、憲法の「平和」の公約を破棄しようとしている。これこそ、日本の資本家が大規模な軍備増強を追い求めている背景である。石破首相は、中国に対する「アジア版NATO」を言い、また米国の核戦力に加わると言っている。帝国主義者の立場からすれば、他の選択肢はない。そして、これは、資本家が労働者に対し要求するますます多くの略奪を意味する。例えば労働条件や生活条件への攻撃といったことである。この危険な発展に対して闘う出発点は、その原因となる勢力に反対する労働者階級の闘争である。すなわち、日米の帝国主義とそれらが支配する世界秩序との闘争である!
したがって、極めて具体的な見方をすれば、労働者の暮らしの改善やその防衛の闘いでさえ、帝国主義から中国を防衛する必要性と結び付いている。支配階級が、こうした攻撃を正当化するため、反共主義、反中国のキャンペーンを利用するなかで、我々は、プロレタリアートを麻痺させようとするこうしたイデオロギー的束縛と闘う必要がある。このことは、中国共産党に反対する一方で、なぜ労働者が帝国主義に対し中国を防衛する必要があるかの階級的理解によってのみ実行可能である。
必要とされる具体的な闘いとしては、辺野古や沖縄の他の基地に代表される、日米の軍備増強に反対する労働者の行動なるだろうし、そして労働者階級の生活の実際の改善を獲得するため、労働組合運動による階級闘争の戦いになるだろう。こうした緊急に必要な闘争の道筋のどれひとつをとっても、支配階級との直接的な対決を意味するだろう。
しかしながら、労働運動の現在の指導部は、全く逆の道を歩んでいる。日本共産党は、軍事化と戦争に対する最善の保証として、労働者が憲法の防衛に固執する必要があると主張している。中核派のようなより急進的なグループは、革マル派ように、ウクライナへの武器供与に向け、直接政府の目的のために動員する場合を除いて、「戦争反対」を精一杯に叫んでいる。彼らの活動の全方向は、以前の「平和な」時代の維持に期待を寄せることである。それは正に、自身の破綻を生み出してきた。そして帝国主義超大国を軍事化へと導いている現在の全動きを引き起こしている。
それは、「平和」を口に出す用意のある日本の資本家の一部と同盟を追い求めようとする政治戦略であり、日本共産党の指導者たちを立憲民主党といった勢力にひざまずかせるものである。今週、共産党の党首の田村は、立憲民主党の党首で反中国強硬派の野田を首相として投票するのを検討していると宣言した(1週間後、日本共産党の国会議員たちは実際にそうしたのである)。日本共産党や社民党のこうした戦略は、その労働者階級基盤を、軍国化を推進するだけでなく、自国の労働者に対する攻撃をも推進するまさにその勢力に結び付けてきたのである。それは、現在、労働者が自身の利益のために必要とする闘いに、完全に対置されたものである。中核派が発するすべての革命的な言葉にもかかわらず、こうした戦略こそ、彼らが労働運動で戦わず、代わり入れて、参加しているものである。
したがって、中核派は、中国に対する帝国主義の侵略戦争をいかに阻止し戦うかの例として、広島での原爆記念日である8月6日に、本年の抗議集会を推し進めている。思うに、多くの若者や労働者は、このスローガンを、日本政府に反対し、中国の側に立つように見えさえし、かなり革命的であると理解している。秋月は、中核派の目的を「闘う中国・アジア人民と連帯し、日帝の中国侵略戦争を内乱へ転化せよ!」と宣言している。これは今年初めに行われた中核派の第9回全国大会で決定された「戦略的スローガン」でもあった。我々はこうした目的に全面的に賛成する。問題は、中核派の綱領や行動が、この目的に正面から逆行していることである。広島での集会は、このことをはっきりと証明している。
国家による弾圧や右翼の脅威に直面するなか、中核派が広島でその日の反動的なデモ禁止を突破しようと戦ったのはよいことである。問題は、しかしながら、抗議の政治や綱領だった。この抗議集会でのスピーチやまた中核派の宣伝の主な政治的主張は、「ヒロシマ・アピール」2024(『前進』3357号参照)を支持することだった。この声明は、どんなリベラルも署名しうる―実際多くリベラルが署名したが―ものである。この声明は、現政権が平和憲法の約束を破壊し、戦争と核兵器が悪であり、平和な日本を破壊してはならない、と訴えていた。
崩れかけた米国の支配秩序に反対して、労働者や若者を動員するのではなく、中核派や日本の広範な左翼は、全力で、「安定」と「平和」の先の過ぎ去った時代にしがみつこうとしている。この考えを次のように総括できる「世界的な危機に巻き込まれない『平和な日本』を維持できれば、その危機を乗り切ることができるだろう」。こうした見方は幻想である。米国を筆頭として、帝国主義者は、世界を次々と危機においやり、平和のアピールには断じて耳を傾けはしない。そして、この見方は、我々が反対して戦うべき秩序に望みを託すことで、反動的でもある。日本におけるこうしたイデオロギーは、日本共産党のような勢力が、労働者の手足を縛り、彼らを民主党のようなブルジョア勢力に縛り付けるのに用いる極めて重要な接着剤である。それは、建前では「平和」のためとされているが、実際にはボスが労働者を抑え付けておくことができるようにするためのものである。
したがって、実際には、広島での抗議行動は、中核派の綱領における根本的な問題点の例である。中核派は民主党を至る所で非難しているが、平和主義というブルジョアイデオロギーとの政治的結束を促進しているのである。それは、日米による中国への帝国主義侵略戦争に反対する強力なプロレタリアの戦いを構築する上での最大の障害物である。この問題は、日本におけるマルクス主義左翼の中核派に限ったことではなく、労働運動の増々の弱体化をもたらし、その現在のお粗末な状況に寄与してきた。
中国が「スターリニスト国家」だとする中核派の理論は、リベラル勢力とのこうした不可侵条約における一つの重要な要素である。日本の政治に少々精通している人ならだれでも、帝国主義に対して中国を防衛しながら、労働組合の官僚とかリベラルサークルから立派だと見なされるのは不可能だと知っている。日米そして中国のどちらの軍備増強をも単に非難することは、ある人々には急進的だと思われるかもしれない。たとえどれだけ、中核派のように、共産主義やプロレタリアート独裁を誓っても、帝国主義者に対して中国側に立つことを拒むどんな左翼組織は、自国の帝国主義支配者の側に立つことであり、世界の労働者階級の利益を裏切ることである。こうした立場はまた、日本の労働者をその主要な同盟者、つまり中国の労働者から完全に孤立させる。それ故実際に、帝国主義者による中国への侵略戦争を阻止するための闘争を完全に掘り崩すことになるのである。
来るべき時期において、日本の改良主義左翼は、一方では平和への願望、そして他方ではそこへ導くことが可能な一つの道を追求するのを拒否、この両者の間に増々追い詰められるだろう。その拒否とは、帝国主義者とそのリベラルイデオロギーに対する闘争、そして資本主義が帝国主義に反対して粉砕された国家の防衛の一部としての闘争を拒むことである。こうした闘争を追求することによってのみ、我々は、自国帝国主義とスターリン主義に対する革命的な反対派を構築することができるのである。
最後に、ソ連についてのトロツキーの引用を、中国に適用することで、私の演説を締めくくりたい。
「中国を労働者国家として―一つの型としてではなく、型を不具化したものとして一認めるということは、中国共産党官僚制を理論的および政治的に免罪することを意味するものではない。それどころか、中国共産党官僚制の反動的性格は、その反プロレタリア的性格と労働者国家の必然性との間の矛盾に照らしてはじめて完全に明らかとなる。こうした方法で問題を提起してのみ、毛沢東一味の犯罪に関するわれわれの暴露が運動の十全な動力となるであろう。ソ連邦の防衛は、帝国主義に対する最大限の闘争を意味するばかりでなく、ボナパルチスト官僚制の打倒のための準備をも意味するのである。」
—『労働者国家でもなくブルジョア国家でもない』(トロツキー、1937年)